2010.08.20

借りてきたのは脚本なのか監督なのか「借りぐらしのアリエッティ」

1年以上ほったらかして(人生いろいろありました、もうホント)、Blogの整理や引越しもして、再開を考えながらもなぜか手が進まないそんな状態。最後の記事がポニョだったことを考えるとアリエッティをネタに再開するのはちょうどいいような、どんだけジブリ好きなんだと呆れる感じではありますが、観てきました「借りぐらしのアリエッティ」。もちろん、どうしても行きたいという方がいたのは2年経っても変わりないのですが。
内容についてというより、アリエッティを観て考えたことを書いてみたいなと。



Arrietty



2010年になってからTwitterを始めていて、2010年05月25日(火)にこんなポストをまとめてした。

今日は昔の上司がリタイアされてから復帰した美術会の展覧会を観に新美術館に。

そこで元上司と話したのは、写実と写生とか、デザインと絵画・アートとか、そんなことだった。もちろん近況報告もしたけど。

とにかくテクニックとしてとか行為として絵を描きたいという人がいる。デザイナーでもとにかく作ってしまいたいという人がいる。実践的なオペレーターといった人たちである。

また、伝えたい内容を消化し再構築して描くという人がいる。デザイナーからクリエイティブ・ディレクターになるような人もいる。伝えたいこと、表現すべき物を持っている人である。

先の二つのタイプで展示される絵が違うということだ。オペレーションに興味があれば、写真のようにみた物を描けばいい。伝えたいテーマがあれば、表現法や構成を考えた上で描くだろう。

で、伝えるために考えることはデザインであると。デザインはアートではないかもしれないが、アートの中にもデザインはあるといったことである。また、それがない写生というものもあったり。

そんなもっともらしい話をしてきた。



上のポストと同じことをアリエッティを観終わって感じました。
その前にBRUTUS“ブルータスのスタジオジブリ特集”を読んでいたせいもあったかもしれない。ジブリとしては次代の監督を育てたかったのですね。そこで、この監督に白羽の矢が立ったわけで、脚本は宮崎さんが書くから頑張ってやってみてね!となったと。



脚本と演出が別の人間なんてことは良くあることで、それ自体は問題はないはず。ただ、脚本制作者が脚本家ではなく本業が監督の場合、自身が監督するなら演出で表現できてしまうようなストーリーなら端折ってしまうかもしれません。または、監督が編集段階でカットしているのかもしれませんが。ハウル(ポニョもか)など、ストーリーを短い中に詰め込もうとしたのか、ストーリーを追っかけている感じを受けることもありました。ポニョとアリエッティは、より子供向けと考えたのか、意図的に作品時間が短くなっています。削られてしまうシーンも多いでしょう。



この端折られた部分が補足的(伏線的)なストーリーの場合、直接表現しないのであれば、何らかの方法で説明する必要が出てきます。シーンを入れない分、台詞で説明するとか思いや感情を表情や仕草で表すとかですね。



ここで、「アニメーションを作ることと、ストーリーを訴え伝えることは別なのではないか」という話になるのです(はぁー、長かったぁ)。ただのアニメーターであればオペレーターでいいわけですが、演出するにはストーリーを追うのではなく、どのように伝えたいのか?どう受け取って欲しいのか?という考えが必要になります。



演出でコミカルで軽妙な演技をさせるのか、乾いた淡々とした演技をさせるのか、あたりまえのことですが、この違いが作品の印象を変えてしまいます。
端折った部分の説明になるところで表現方が違ってしまえば、全く違うお話になります。
アリエッティではこの違和感が出ていたように想ったのです。脚本家と演出家とで同じ世界が見えていたのでしょうか?



BRUTUSの特集で、我修院達也さんが語っていたのは「悪党でも本当の“悪”は出ない」ということ。今回ここが裏切られてしまっていたと思います。
悪い人間どころか、怖いくらいの人間がいたわけです。眼鏡の取り出し方や遠くを伺う時の表情など、他のキャラクターにない細かい表情や描写のせいで、嫌らしい印象は強まります。そのせいで、後のシーンではグロテスクな印象さえ与えてしまします。そのキャラクターに悪意がなかったのかもしれません。何らかの理由があったのかもしれませんが、思い出などが端折られているため、なぜそこまで執拗にするのかわからないのです。そこを補うのが、役者に対する演技の指示です。子供向けなら通常、ユーモラスさやコミカルさで、悪い人間でも笑いの要素で薄めるなり、最後は笑い飛ばしてしまうことでしょう。それがない。



そのキャラクターがどういう人物であるのか伝えるのは演出です。だから演技指導としての演出をする人間がどんな人物像を持っているかにかかっています。さじ加減で、ニュアンスは変わってしまうのです。いい所がないままで良いと考えたのでしょうか?演技が明るくコミカルな面が強調されていれば、失敗も楽しくなるのですが、そうでないため後味は悪いです。その後、そのキャラクターへのフォローもなかったですし。



人間観察や洞察力、そして人にどうあって欲しいのかという思いは伝わりませんでした。そのキャラクターにもいい点や優しいところがあるのだよと見せることもなく、ただ考えなしでやり過ぎてしまったのであれば、後悔や反省のシーンが描かれなければ伝わりません。それがなかったため、そのキャラクターは悪のままです。



ここにシーンを追うだけでとにかく一本作ることができるということと、作中のキャラクターに対する思い入れを含め人間を表現したいということの違いがあるのだと思います。そういう怖い人を見せたいのだというのは、子供向けではない作品でしてね。それには時間が足りていないと思うよ。



94分という長さの作品なので、これは脚本自体の問題のように思いますが、、、。それはアリエッティと男の子の信頼関係。大きなエピソードでしたが一回のエピソードだけでは“別れを惜しんで涙するほどの関係”は築けないでしょう。そこに至るには、細かいエピソードや楽しい共通体験がないと、思い出すものがなくては別れは悲しめないでしょう。トトロ程度には仲良くなる段階が欲しかったと思います。



アリエッティはとても好もしい女の子だったし、皆さん演技もうまかったし、もっと良いお話になったと思うのです。続くのかなぁ?
久しぶりなので考えすぎました。長くなったなー。以前のように短くできるのでしょうか?続くのかなぁ?



ところで“ブルータスのスタジオジブリ特集”、宮崎駿監督のオフィスをみましたか?篠山紀信さんが撮ったもの。さすがです。女の子写真なんか観るより、こういった写真を観るとさすがの実力を感じます。

2008.07.30

契約がない人魚姫はかなり幸せ? 「崖の上のポニョ」

7月19日にはもうひとつイベントがありました。ひとつ目のイベントが19:30頃終わり、そのまま帰るには早い時間。正直この組み合わせは自分の脳に受け入れられるのか疑問でしたが、どうしても行きたいと言う方がいて、、、いつもの通りですが、、、。実は「崖の上のポニョ」、初日に観に行っておりました。

ponyo

子供向けにしたかったということでしょうか。時間は短めに、ダダーと話は進み、スパッと終わり。悩んだり、逡巡している暇なんてない。出会うようにして出会い、とっとと選び、周りも即納得。なるようになります。ですからテンポの良さが勝負。“お約束のどこが悪い!!”と言うことですな。明るくて単純明快、嫌な奴も出てこない。で、“予定調和やお約束”というのは経験則だったりするので、知識や経験を持つ大人にはうけるでしょうが、お子さまにはどうだったのでしょう?また、CGを使わないというのも手描きの時代を知っている人達が懐かしむのではないかと。常に“今”を生きている子供たちにとっては、意識の外かも知れません。

いろいろと突っ込みどころもあり、それを怒ってる方もいるようで。えー、他のブログを検索してみてね!確かに疑問な部分、意味わからんこともあります。単に“勢いづけのお約束として入れたかったのだよ”というシーンもあったりします。ですが上に書いたように、そんな難しく考えず、素直で、元気の良い、明るい物語にしようとしただけだったり?いつの時代にも、かたい人もゆるい人もいるのですよね。

ところで演じ手はプロではいけないのでしょうか?子役はお上手ですけど、いつも必ずお上手でない方いますよね?そこの方がよっぽど気になりませんか?あぁそれと、ポニョはお魚のポニョが好きです。

2008.07.21

誰にも止められない 「芸術言語論 —沈黙から芸術まで—」

「共同幻想論」が刊行された1968年生まれだが、完読できたことはない。あの角川文庫版は、あまりにも文字が小さすぎるのだと思う。ということで、ふた足くらい遅れて吉本隆明講演「芸術言語論 —沈黙から芸術まで—」のお話。「ほぼ日刊イトイ新聞」10周年記念企画だそう。2008年7月19日 昭和女子大 人見記念講堂に行きました。



geijutugenngoron




以前本か雑誌で見た書斎の様子では目が悪いため、原稿は拡大して写す機械のモニターを見ながら書かれていた。脚もお悪く車椅子で移動されている。そして83歳というご高齢。そういった人の講演と聞いて、どんなことを想像されますか?お体に障らないかとか、どちらかと言ったらネガティブな印象になりがちですよね?



で、実際はどうだったか?



簡単な構成表を用意されていたが、会場の明るさが足りず見にくかったご様子。ただ、それならそれでと見ようともせず、必要ともしていなかった。原稿を読むのではないので、話しが飛んだり戻ったりは自然なこと。話はぶれることなく、知の巨人の頭脳はハンディや年齢には負けていませんでした。話し始めると表情は冴え、低い声ははっきりと聞こえ、最後は疲労だろうか多少のよどみはあったものの、手を大きく動かしながら話していた。途中例にする小説のタイトルと最後の短歌(?)をど忘れされたくらいで、後はよどみがなかった。



/1945年の玉音放送の話から始まる/「世界を知る方法」として古典経済学を学ぶ/アダム・スミス~カール・マルクスまで/国富論 価値(value)をリンゴを取り(穫り)に行くという行動で考えた。←木がどこに生えているかとか、労力という点で/平明に説明できるスミス/芸術言語学といいたいけれど、そこまで考えていないから芸術言語論/自分で自分にコミュニケーションをとれれば「自己表出」/コミュニケーション用の言語と独り言のように自己の言語、この2つ/表出行為、表現行為/言語のコミュニケーション部分←枝にすぎない物/自然と自分(人間)←この関係が表現 ←相互作用/交通論/精神、言葉、コミュニケーション/精神、言語、精神行動/精神の枠を外す/森鴎外、夏目漱石、太宰治/精神行動(構造)、言語、産物(作品)←この3つを直線で結ぶことができる/鴎外 半日 奥方には数分間の関わりしかない。母親は赤ん坊の頃からのつきあいだと云う。その間に立って結果、宮中参内もあきらめる→縮小/漱石 三四郎 先生は何故探さないのか?探さない訳ではなく、見かけたがそのまますぎてしまった。思い込み、関係妄想→病的な思い込み/このような縮図が現れる。精神構造と表出と結果 宿命のような生来の存在がわかるという/文芸批評というものがあり得るのならば、ここまでできればありなのではないか/音楽家 作曲家と演奏家とは文芸批評と同じ/演奏家の解釈は生来の精神構造が影響する。それは作曲家のものとは違うから/普遍的な芸術の言葉—芸術言語/コミュニケーションのための言語とは次元が違うもの/ただ、政治だろうが何だろうが、全てのものに関係している/芸術の価値—沈黙に近いところから出ている/価値/京大桑原武夫「第二芸術 」論議/俳句なら俳句で作者の名前をなくし読者に見せると…/作者の名前がわからなければ評価されないようなものは「第二芸術 」だと言ったという/では、第一芸術とはポールマリー(ポール・マリー・ヴェルレーヌ) やバルザックなど←桑原が仏文の人だったので/対して小林秀雄は…/「日本の芸術は 短くすることによって…」(これを削げると言うことか?→)「指示表出として、スジや起伏があるところ」/自己表出/横光利一 純文学として下げずに大衆小説(通俗小説)を/太宰 機能的な点による価値評価に対して、西欧的な価値に対して、苦悩 初期に無意識な言語芸術としての作がある「東京八景」「富嶽百景」←ここに芸術言語が/



以上自分用メモ。当然抜けもあることでしょう。いらねえやと端折ったところもあります。また、聞き取れていないところや聞き間違え、字を間違えているところもあるでしょう。それにトイレに抜けた所もあります—面目ない—。



最後はメモ帳が終わってしまい尻切れだが、日本語の音についての話。この音のところで例にする短歌を忘れてしまわれ、これを思い出された辺りで、糸井さんのドクターストップとなりました。ここまで3時間ノンストップ。思い出すにも疲労も出ていたのでしょう。思い出そうと額に右手を当てる姿は祈りのようでもあったが、それはあくまで見ている側の勝手な思い込み。ご本人はもっとサバサバされていたように思う。いやー、迫力というか感動がありましたよ。



こんなこと描いていて足りなくなったのかもメモ帳。



memo




2008.07.17

新刊書店にない本だって欲しいじゃないですか 「古本道場」

実は古本屋に行くことはない。会社は神保町に近いし、いつも神田を歩いているけど古本屋には行かない。理由は営業時間。仕事が終ったときではとっくに閉まっている。正しくは“行けない”のだ。近くにありて遠いモノである。最近の新刊書店は22時までやっている所も多くなり、そちらには足繁く通っていることを考えると、営業時間が理由の全てですねー。でも行けるものならいつでも行きたい。この本を読んでいたら古書店にはお宝が待っているような気がしてくる。角田光代・岡崎武志著「古本道場」。ポプラ社の文庫を初めて買いました。



fuluhon


ところで大手の新古書店なら遅くまで開いているけど、あれはどうもいけない。あの買う気がないのに立ち読みしている人・ヒト・ひと。きれいににクリーニングしますと宣伝しても店頭であんなにされたら意味なかろう。店内を見て回る気も失せてしまう。客(なのか?)も店も本を大切にしているようには感じられない。こういうとどれ程の本好きという感じがするが、中古といえども商品であり、商品を大切にするという考えがある所で買いたいだけね。フランチャイズということだから、店それぞれなのだろうけれど、近所の店ではあまり良い印象が感じられない。


まぁ、ターゲットとする客層が違うのだろう。新古書店は新刊書の中古中心で、古書店は新刊書店では手にはいらないものが中心という点が違いでしょうか?わざわざクラシックな本を探す訳だから趣味性が出てますな。アナログカメラと同じで、好きでわざわざ見に行き買いに行くんだと。


いろいろなお店が紹介されています。素敵な知らないお店がいっぱいです。ですが、元の単行本が出てからこれまでの3年で閉店となったお店がけっこうあります。残念ですねー。需要の問題もあるでしょうし、跡継ぎの問題もあるのでしょう。単行本の時に読んでいたら行けたのに、後の祭りです。これが出会いのタイミング。本は見つけた時が買い時ですね。いつか買おう、そのうち買おうで、いつの間にか絶版になってしまった本も結構ある。まずはそういった本を探しながら、他のモノを見つけてしまう。そんな感じでのんびり行ってみようかなと思ったのよ。

2008.07.10

やはり地球は人間のためだけの物ではないですね? 「深海のYrr  上・中・下」

海洋SFが好きだ!海洋物なら冒険小説だって、アトランティスやムー大陸が海中にとかいうのも好き。簡単に思い出せるところでは、アーサー・C・クラーク「イルカの島」、梅原克文「ソリトンの悪魔」、それに景山民夫「遠い海から来たCOO」なんてのもあった。これらに共通するのは子供が大事な役で、ジュブナイルな香りがするけれど、もちろん他のモノだって好きだ。ダーク・ピットとタイタニック号を引き上げる気になったりだってしたものだ—SFじゃぁないな。いや、あそこまでやればSFか?—。そして小説に限らず水族館も好き。早く“美ら海水族館”に行ってみたいものである。幼稚園に入る前から魚の写真絵本が好きで、“まあるいおかおの とらふぐさん”とか“どちざめさん”とか読んでもらったことも覚えている。だが海の中をこんなに好きになったきっかけは、中村康夫著「神秘の世界 海底探検図鑑」だ。朝日ソノラマの変わったハードカバーの本。今でも実家にあるはずだが、子供の頃の思い出No.1の本である。この本のおかげで小学生ながら“アルビン”という有人海底探査船があこがれだった。と語り出すと切りがなくなる海洋好きが今回読んだのがこれフランク・シェッツィング著『深海のYrr  上・中・下』というドイツの小説。



Yrr




とにかく地球が大変な小説。3巻それぞれが500ページを超えているのだから、どれくらい大変かがわかるでしょう?たくさんの学者とたくさんのエピソード。次々起こる問題に細かいことを気にしている暇なく、一気に読めてしまう。海も海底も大陸も地中も、全てが地球。海流は全てつながっているし、海洋プレートも流れとして地球を巡っている。循環と再生。地球という星自体がひとつの生き物といわれる由縁だ。地球に存在するものは全て連鎖している。風が吹けば桶屋が儲かる訳である。舞台は海洋だがテーマは地球科学と知的生命体とのコンタクト。ハリウッドで映画化されるそうだが、これは納得。作者もハリウッド・ムービー好きのようだし。本当に一気読みしました。



やはり海は恐いし、魅力的だし、あこがれである。ただ、子供の頃と違い深海に行ってみたいとは思わなくなったな。想像力が悪く働くようになったのかもしれない。それに、昔釣りの餌にしていたゴカイがね、、、あんなにね、、、。うーんたまらん。あのゴカイ共も映画化されるよね?うーん想像力とかいう問題じゃなく、絵に浮かぶね!

2008.07.02

本当においしいコーヒーには甘みが必要で、でもうまく砂糖が入れられない 「風味絶佳」

最近は小説を読んでいると辛く感じられることがある。ちょっとハラハラするとか不愉快な展開が感じられると、読みたくなくなってしまうことがあるのだ。それでは全ての小説が読めなくなってしまいそうだが、当然そんなことはない。理由はわからないが、読めるモノと読めない—読みたくなくなる—モノがある。その違いはわからない。面白いとか、面白くないとかいったことだろうか?



ほかにも、登場人物のモノローグ的なものや、書き出しの情景描写のようなダラッとしがちなところも端折ってしまいたくなることがある。まぁ、これは今に始まったことではなく、気持ちの余裕がないとか、せっかちなだけかもしれない。どちらにしても今の精神状態なのかもしれない。



でね、この作者のモノではそんなことは起こらない。退屈することはない。嫌になることがない。山田詠美著「風味絶佳」を読みました。まぁこの本に限らず、恋愛とか、気持ちの移ろいとか、どんなところで終わってしまうのだろうとか、男と女は違うのだなーと思います。男の子として格好よくしたいものだけど、そうも行かない。まぁ、実際イタイ奴らではあるのだけれど。作品ではシャレにならない話もあるし、これで終わって良いの?というのもあったり。どうも何とか結論づけようとするのも男の考え方みたいですか?



hoomizekka




とにかく、元気な話でも、たまらない話でも途中で読むのが辛くなるようなことはない。ハラハラするところ—ハラハラするような話だったか?—も、アーアって思うところも、やり過ぎていないということかも。匙加減が絶妙ということかな。それは、あざといところがないということかもしれない。読みやすい。自然に流れに乗れる。別に甘いだけの話ではないけれど、基本的に人を応援している(?)ということかなー。でないと恋愛なんてしてられないよね。



じゃぁ、読んでいられない話ってのは、、、。そんなことはともかく、この匙加減が難しくてコーヒーが前に飲んだ絶妙な味にならない。だから、しかたなく砂糖は入れないのだ。甘けりゃいいって訳じゃないしね。

2008.06.24

あのアクリルっぽい水晶髑髏チープすぎじゃね? 「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」

初日とはいえレイトショーでこれほど人が入っているのは久しぶりだ。それだけ期待される作品ということか。始まる前の今後公開の予告ではハムナプトラ3が、、、同時期に公開なんてなんだか不思議。ということで「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」。いつも基本的に“ネタばれ”がないようにしようと思っている。今回もそのつもりだったけど、どうも自動的にネタばれになっちゃう。たった一つ二つのキーワードで「おやっ?」と思われるモノが出て来る。それだけで十分台無しなんだ。だから、今回はネタばれってことで。まぁいいやと思える人やもう観たよとという人以外は、ここでやめといて。

indianajones

まず飽きることなく退屈することなく観終わった。だがまぁ4作目は4作目。それも19年振りということである。その点は観る方も覚悟の上か?今回のネタはオーパーツ —OOPARTS( Out Of Place Artifacts)—。水晶髑髏。どうもオチが気に入らないという人がいるらしい。ジョージ・ルーカスとスティーブン・スピルバーグである。二人がSFをやるのは不思議はないよね?誰よりもSFを創って来た二人でしょ?それにオーパーツと地球外生命体というのも、語られがちなセットだし。物語のトレジャーハンターは人知を超えた智と会う率が高い。それを神とするか、別の生命体とするかの違い。人類にできないことをするのが神だとすれば、同じ技がなせれば地球外生命体も神になっちゃう。このような話はたくさんある—B級にだけど—。エイリアンV.S.プレデターなんてのもそんな設定だったし、トレジャーハンターが、いつも異界の者(エイリアン)に辿り着き、結局渡り合うことになるなんていうのも朝日ソノラマにあった。娯楽大作は高尚である必要はないもんねー。

そんなことより気になるのはCG。時代ということもある。ルーカスフィルムということもある。これこそ気なるといっている自分がおかしいのもわかる。でもね、やっぱりハラハラしない。蛇いっぱいの穴に落ちていたり、虫がウジャウジャなとこに手を突っ込んだり、あの大玉が転がって来たのでさえ迫真だった気がする。記憶が美化しているのかな?蟻のCGがハムナプトラを思い出させたりしてた—逆じゃん!—。

第二時大戦後であること、ソビエトとの冷戦の時代、あの当時のマッカーシズムとか波止場のマーロン・ブランドとか、これまでになく時代背景を伝えようとしていた。19年経っていることをいいたかったのか?とはいえ、やり過ぎだろう核実験。確かに宇宙人ネタで有名なエリア51とネバダの核実験場はお隣らしいから派手なエピソードを思い付いたのかもしれないが、、、。あのシーンは可笑しいところだったのかい?確かにヤング・インディの時から、時代の生き証人のようにいろいろな出来事に居合わせるのがインディアナ・ジョーンズなんだとしても、これはひどい。考証としても、鉛で覆われた冷蔵庫だからといって、すぐに扉を開けたらどうよ?そして日本人としては?あらゆる意味でやり過ぎだろう。

まぁ、最後に帽子をスッと取って、かぶりながらニヤッと笑ったところが観れて良かった。インディアナ・ジョーンズはまだまだ終わらない—シリーズが終わったとしてもね—。そして、やっぱりケイト・ブランシェットが好きだー!

thehat

2008.06.17

恐れるな!自分を解き放て! 「ぼくは閃きを味方に生きてきた」

母方の祖母が亡くなったのが1992年のこと。物心ついた時には父方の祖父母も母方の祖父も既に亡く、その分という訳ではないのだろうけど、祖母は92歳だった。1900年代を駆け抜けた女。足掛け2世紀である。デザインの学校を卒業し2年間学校で働いていた、その2年目のことだった。その通夜の時に久しぶりに会った従兄が聞いたのは「横尾忠則みたいのか?」だった。当時は画家というイメージが強く「最近は宗教画みたいだけどね」なんて返した覚えがある—なんて失礼なんだ、オレよ!—。くしくもその年に出版されたのが横尾忠則「芸術は恋愛だ」。今回はこの文庫版、改題され若干加筆・修正されたらしい「ぼくは閃きを味方に生きてきた」を読んだ。



bokuhahiramekiwomikatani




本当は先週の「冒険王・横尾忠則」を観に行く前に読み終わる予定だったのだけど、、、。みんな読めばわかるけど、やっぱりすごいです。ある意味トンパチ来てるけどピュアな—プリミティブな?—パワーがあります。本当に素直なお人柄が感じられます。本人を知らない人が読むと、誤解されそうなキーワード(UFOとか、天使とか、チャネリングとか、etc. etc.—あー、退かないで!!—)がてんこ盛り。だけどそうじゃない、読めばわかる。生きるということを喜び、感謝し、謳歌している人なのだ。そして本当に自由な人。現代の絵画にしても、現代人そのものにも“もっと心のままにあれ”と語っている。考えるなと。“Don't think. Feel.(考えるな、感じろ)”とブルース・リーも言っています。その直観、閃き、啓示にまかせてみようと言っている訳。



感動できるものが本物。頭で考えたものではなく、純粋な魂から生まれたものが本物だろうと。人にどう思われるかではなく、想いのままに行こうと。自分を好きになり、自分を愛することが勇気につながると。人生は遊びなんだから楽しもうと。毎日をワクワクドキドキしたいだけなんだと。これで良いんだなと思えてきます。どうです?勇気が湧いて来るでしょう?



ところで横尾さんが出ていたドラマは寺内貫太郎一家でしたよね?篠(お涼)さんと藤さんと横尾さんがどれが「時間ですよ」でどれが「寺内貫太郎」か、幼稚園だか小1くらいだったので、記憶がごちゃごちゃです。でもね、両方観てたことは覚えているの。

2008.06.10

勇気 「冒険王・横尾忠則」

世田谷美術館へ行ってきた。「冒険王・横尾忠則」。とにかくスゴイ!ボリュームも迫力も。




boukenou






手で描く(書く)ということの力が見られる。パソコンでデザインをするということが、大変小さく、つまらないことのように思えるかも。そして表現をするということは、人に何を言われるかということを気にするのではなく、人にどう感じさせたいかを考えること。“こんなことしちゃ不味いかな?”などと顔色を伺っているのではなく、“これで叩き付けてやる!”という度胸とか勇気を持つことなのだろう。それが自由ということ。




自分がデザインをやろうと思い、まだMacを使う前にイメージしていたグラフィックデザインとはこんな作業。描き(書き)たかったのだよ。それを思い出し、今からだって描き(書き)たいなと思った訳。Macも大切なツールと認めた上で、それがなくても表現できて、つくることができる腕・技も持っていたかったんだ。Macからスタートした人はこの膨大な数の表現を観てどのように感じるんだろう。




当然グラフィックだけでなく、絵画もたくさんある。本当にたくさんあるので、これから駆け込む方はくれぐれもご注意を!2時間でもたりなかったー。2フロア使っていて、まず2階からまわるんだけど、ここがたくさんあるので、1階はそれ程でもないと思いがち。ところが1階にもたくさん展示されています!用賀駅から歩き、館内も歩き回りだから、腰が痛くなっちゃったよ。本当に膨大な展示で、ホントはもう一度行きたいんだ。

2008.06.02

みんな優しくて傷ついている 「尾崎翠 ちくま日本文学004」

最近本屋で目に入ってくるのが「尾崎翠」の3文字。どうも筑摩文庫のコーナーにいることが多かったのかもしれない。で、ちくま日本文学004「尾崎翠」を買ってしまいました。実は同じような理由で内田百閒も買っているのだけれど―っていうか一緒に買った―、こっちはそのうち、、、。まぁ、またいつか、、、。このようにして山は積みあがって行くのです。



Osaki Midori


読んだことはなかったのになんとなく“懐かしい感じ”。といって以前読んだもので当てはまる物が思いつかない。そして“古い感じ”もしないのだ。侮れない古典。古くない古典。やはり何でも読んでみるべきだ。じゃぁ何で“懐かしい”のかと、そもそも面白かったのに記事が書きにくいってんだからどーしようかと、「尾崎翠」でググッて見てみた訳。そしたらすぐに出てきました“少女マンガ”というキーワード。なんだか納得。“尾崎翠”+“少女マンガ”でも検索されます。雰囲気とか香りとか、懐かしさはここにあったのかなと。なんだか川原泉が読みたくなった―急に思い出した―。昔は妹の漫画も読めたので良かったものじゃったー。


ちょっと神経質だったり、口うるさかったりするけれど、優しくてちょっと傷を持っている人たち。恋愛に臆病になっていたり、気持ちを出せなかったり。いつの時代も同じ気持ちはある。逆に当時にしては大胆な話だったのか…?文章は広がりがあるようで、押入れの中で一人夢想している妄想派のようでもありユニーク。そして、意外に淡々としているのだ。多分何度読んでも同じような新鮮さがあり、飽きることはないだろう。ただ、尾崎自身が投影された話なのだろう、軽い話ばかりではない。表現としての明るさや軽やかさなのかもしれない。きっとまた読むと思う―まぁ、あんまオッサンが読むのもどうかな、オレよ?―。

«これは新境地なのか? 「カメラは知的な遊びなのだ。」

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